ヨメイ*連載中 - 4/4

第二章 会

一.

「――ン」
 ふっ、と生暖かい風に肌をくすぐられ、ゆっくりと意識が浮上する。夜が明けたばかりで辺りは白んでいた。普段のナルトなら寝ている時間だろう。
 イ草とカビが入り混じる匂いを感じ、昨日のことをぼんやりと思い出す。結局、一晩眠ったところで夢から目覚めるということはなかったようだ。
「さす、け……」
 サスケの方を見れば、敷かれたブレザーやカバンをそのままに姿を消していた。
「サスケッ!」
 事態を把握した瞬間、頭が一気に覚醒する。勢いよく立ち上がったせいで痛む足が悲鳴をあげ、たたらを踏んだ。しかしそれを気にする余裕もない。所々ハゲている畳の不快感を靴越しに感じながら狭い部屋を見渡す。室内に大きな変化は見えない。けれど何か手がかりはないかと乱雑に物を避けながら必死に叫ぶ。舞い上がる埃が気管に入り、視界をぼやかした。
「ケホッ……、サスケ! いたら返事しろ、サスケェ!」
 必死な叫びが耳にこびりつく。
 ブレザーやカバンを見る限り誰かと争った様子はなさそうだったが、この異世界のような場所ではなにが起きるかわからない。現に、サスケがいなくなる気配を感じなかったのだ。忽然と姿を消すなんて想像すらしていなかった。
 昨夜はひどく狭いと感じた荒れた部屋も、ナルトの焦燥と比例して大きく見えてくる。
 もしかしたら自分が寝ている間に外の様子でも見に行ったのかもしれない。そう考えて、一旦心を落ち着かせようと小さく息を吸う。
 ――コン、コン
「……ッ、」
 息を吐きかけたところで背後から音がした。それはノックのように、木材を軽く叩いた音だった。ナルトは今、サスケによって扉が壊された玄関口に背を向けていた。
 肺に入れた空気は排出されず留まった。バクバクと鳴る心臓がうるさい。
 風かなにかで物がぶつかった音かもしれない。そう思いしばらく無視を決め込む。しかし非情にもその思いは打ち消される。
 ――コンコン、コンコン
 今度は明確に、ナルトを呼びかけているような音だった。扉が壊れているのにも関わらず、黙ってノックをし続ける。サスケは悪戯を仕掛けてくるようなヤツではない。ナルトが知らない誰かがそこにいる。出口は玄関口だけだ。窓もあるが、物が積み上がっているせいで開けることすら難しい。体が縛り付けられたように硬直し、振り返ることができない。
 ――コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン
「はッ、だ……誰だってばよ」
 絞り出した声はか細く震えていた。握り締めた拳に爪が食い込む。
 一定のリズムを刻み出した音はナルトの呼びかけによって静止したものの、頭の中で鳴り続けている。返事は一向に返ってこない。
 限界に達し、思わずしゃがみ込み身を縮める。手で耳を塞ぎ、目をギュッと閉じた。
(早く、どこかに行ってくれ)
 それからどれぐらい時間が経っただろうか。頬に畳のささくれが刺さっている。どうやら気絶してしまったようだ。ゆっくりと体を起こすと、パサリと何かが落ちた。見ると、カビやシミだらけの掛け布団らしかった。カビや埃まみれの床に横たわった挙句、布団までかけるなんて。そこまで考えて、ようやく違和感を覚えた。この布団はサスケがかけたのだろうか。
「サスケ! 帰ってき、た……」
 声が萎んで消えた。
 ナルトが見た先には、部屋の隅でちょこんと正座をしている一人の老婆がいた。ニコニコニコニコ。目を細め、微笑みを絶えずナルトに向けている。さらに玄関先には五人の若い女性が老婆と同じように表情を固めこちらを見ている。ニコニコニコニコ。ナルトの視界には不気味な笑顔が広がっていた。その異様さに息を呑む。一見優しげな表情に見えるが、それとは違う何かが漂っている。
 皆ボロボロの布切れのような着物を纏っていながらも、凛とした佇まいである。
「起きられたのですね」
 嗄れた声が聞こえ、体がビクンと反応する。反射で声の出どころを見ると、老婆が再び口を開く。
「起きられたのですね」
黙ったままでいると「起きられたのですね」と、老婆が同じセリフを吐いた。まるで壊れたレコードのようだ。玄関先を見遣るも、彼女たちは押し黙ったままだ。シャツがじっとりと肌に張り付く。
 何か言葉を返さないとずっと同じセリフを吐き続けるかもしれない。気まずい雰囲気に気圧されながらナルトも口を開く。
「この布団、お前がかけてくれたのか?」
 ひとまずパッと思いつくことを聞いてみた。すると老婆は表情を変えないまま「左様でございます」と返した。会話が成立して少しホッとする。もう一度玄関先を見てみると、こちらは相変わらずだ。彼女たちはナルトから直接声をかけない限り話しかけてこなさそうに見えた。
 ふと気づく。もしかしたらここについて教えてくれるかもしれない。まだ恐怖心は拭えないが、この状況について何もわからないよりはマシだ。
「あのさ、さっきノックしてたのってばーさん? それにここどこだってばよ。木ノ葉町に帰りたいんだけど……オレたち急にここに来て。あ、あと男の黒髪で後ろがツンツンしてるヤツ見なかった?」
 矢継ぎ早に言うと、老婆は表情を変えないままコクリと首を傾げる。「ノック……」と小さく呟いて、それきりになった。
「あー、ごめんな。一気に聞いちまった」
「いえ。お気になさらないでくださいませ。私めが失礼な態度を取ったのが悪いのですから。どうかお許しください」
「えっ、いや、そんな」
 妙に畏まった姿勢に拍子抜けしてしまった。首を傾げただけで失礼な態度にあたるわけがないだろう。貼り付けたような笑顔に、引くほどの低姿勢。一流ホテルの接客を何倍か濃くするとこんな感じになるのだろうか。そんなくだらないことが思いつくくらいには緊張がほぐれていた。はぁ、と小さく息を吐くと思考もクリアになってきた。依然目の前の女性たちは変わらぬ態度のままで気味悪さが残るが、見ているうちに慣れて来た気がする。会話ができる相手だとわかったのが大きいだろう。
 サスケが突然消えてしまい不安で押しつぶされそうだったが、この人たちは何かしらの協力してくれそうだ。もし帰り道がわかったらサスケと一緒に帰ろう。せっかく仲直りもできたのだし、それぞれ別の道を歩んだ間の話をたくさんしたい。一縷の希望が見えた気がして思いを巡らせた。それを叶えるにはまず、答えを聞かなければならない。
「えっと、さっきの質問なんだけど」
「はい。お答えいたします」
 老婆の声に背筋をしゃんとする。
「私たちは貴方様がここで何やら叫ばれていたようでしたので、お伺いに参りました。しかし何かをつぶやいたあと、お倒れになったのです。そしてここは貴方様がお過ごしになられている仮住いでございます。仰られていた男性は存じ上げません」
「――は?」
 求めていた答えはあまりにも淡々と語られた。老婆はこれ以上言うことはないとばかりに口を閉ざす。
 老婆の言葉を整理する。ノックしていたのはこの老婆で間違いはないだろう。たしかに、玄関先にいる彼女たちほどではないが、こちらの老婆も積極的に会話を持ちかけてくる様子はあまりない。だからと言って無言でノックし続けるのはいかがなものなのか。扉だって開いているのに。そして起き抜けのナルトにしつこいほど声をかけてくるのだから相手の意図が読めない。
 なにより、ここがナルトの仮住いとはどういうことだろうか。初めて来たはずなのに。自宅も散らかってはいるものの、こんなにカビ臭くて埃まみれの荒れ放題な家に住んだ覚えはない。しかし、老婆が言うにはなるとはここに住んでいることになっているらしい。
 ボロボロの家にボロボロの服を着た女性たち。そして〝貴方様〟と敬われている状況。まるで時間だけがここを置き去りにしてしまったかのような空虚さを覚える。
 サスケもいない、となれば結果的に謎が増えただけだった。考えたくても頭がいっぱいで収拾がつかない。とにかく、サスケを探してここを出る方法を新しく探らないといけないことはわかる。
「ちょっと空気吸いたくなったから外出るな」
 すっくと立ち上がり、玄関に向かう。すると今まで貼り付けたような笑みを浮かべていた女性たちは一斉に眉尻を下げ、顔を見合わせる。振り向き老婆を見ると、こちらもかなり動揺した様子でナルトを見ていた。
「な、なんだよ」
「……いけません。なりません。外に出てはなりません」
 老婆がヨロつきながら近づいてくる。先ほどの感情すら読めない落ち着きようはどこかへ行ってしまったかのように必死に縋ってこようとする。手が伸びて腕を掴もうとしてきた。しかしその手はナルトに触れることなかった。老婆が顔前でパン、と手を合わせそのまま頭を下げた。
「どうか、どうか。なぜそんな、ああ」
 嘆くような声は小さかったものの確かに耳に届いた。
 老婆の様子に驚き玄関先を見ると、彼女たちも同じように頭を下げ、何かを呟いていた。
「あんたら、急にどうしたんだってば」
「ああ、お願いします。お願いします」
「おい! どうしたんだって!」
 つい我慢ならなくなり、老婆の肩を掴んだ。すると老婆はガバリと顔を上げた。
「ぇ、」
 喉がヒュッと音を鳴らす。
「ああ、お願いします、どうか、どうか、どうか」
「――っ!」
 貼り付けた笑顔を消し、目玉が飛び出しそうなほどカッと開いて何かを懇願する老婆。その目はひどく充血し、瞼から一直線に赤い涙を流していた。
 あまりの光景に言葉が出ずに後ずさる。すると老婆が一度えずいたかと思えば「ゴフッ、お、ぉえ゙」と赤が混じった体液を吐き出す。同時に腐ったような強烈な異臭が立ち込める。あまりの臭いに咄嗟に手で鼻を覆うも効果はない。
 早く逃げよう、と足を踏み出す。玄関先にいる女性たちは老婆の変化に気づいていないのか、いまだに下を向いて呟き続けている。
「マ゙、ぇ、ぐだァ、イ」
 老婆が何かを言っている。しかし無理やり空気を押し出したような音で内容は把握できない。
「おい! どいてくれ!」
 女性たちは答えてくれない。強引に押し除けようにも、また同じような光景を見ることになると考えるとどうしても手が出せない。
「ヨメイをなくしてはだめだ」
 頭に響くような声が聞こえた。それは老婆のもので、先とは違いしっかりとした音を出していた。ヨメイってなんだ。そう頭によぎった瞬間、目の前の女性たちが顔を上げた。その顔はやはり老婆と同じように目から血を流している。若かそうに見えた印象はさっぱり消え、肌は枯れたように捲れている。一度見たものでもやはり恐ろしく、異臭も相まって吐き気が込み上げる。
 体が動かなくなり一歩一歩と後ろに下がると、彼女たちの手が一斉に伸びてくる。
「くっ、」
 咄嗟に屈み一人の顎めがけて頭突きをする。すると相手はよろけた。念入りに腹に一発思い切り蹴りを入れ、倒れ込んだ隙に外へ出た。
「ィ、イか、ァいでェ……、ぃ、ぐァあ゙!」
 咆哮のような叫びが聞こえたが、後ろを振り返ることができなかった。

 

二.

 ハァ、ハァ、と乱れる息。
 あれから随分と走ってきた。
 昨日は全く人の気配がなかったが、逃げている途中住人らしき人を何人か見た。しかしその誰もが、ナルトを見るなりあの老婆たちと同じように頭を下げ始めるのだ。助けを求めようにも話にならない。
 気づけば集落から離れ、すぐ先には森の中へと続く山道が見える。
「サスケ……どこ行っちまったんだよ」
 逃げ回りながらも必死にサスケの影を探した。しかしそれらしきものは何もなく、身一つでここまで来てしまった。サスケはナルト一人を置いて勝手に帰えるようなやつじゃない。喧嘩した時はその限りではないが、今の状況なら絶対にそうしない。だから、もしサスケがあの家に戻った時にナルトがいなかったら、探し回ったあとにあの家で待っているだろう。その間に同じように襲われたら、と考えて血の気が引いた。あの家に留まることはなくとも、書き置きぐらいは残したほうがいい。
 戻る決心を固め静かに立ち上がる。木の影に隠れ集落の様子を伺うと、住人たちは頭を下げていたときとは打って変わり自然体で過ごしていた。しかしどうも生活様式が古い。まるで時代劇の中に入ったかのような感覚に陥る。昔の生活を再現した施設が別の地域にあると聞いたことがある。もし遊びできただけなら楽しめただろうが、生憎今は全くそんな気持ちにはなれない。
 なるべく人に見つからないように、先の家に戻るための最短ルートを探る。
「あっち曲がってからどのみち入ったんだっけ」
 しかし悲しいかな初めて通る道をがむしゃらに走ったおかげで、どの方向に家があるのかわからなくなってしまった。
「ハァ〜〜〜〜〜」
 大きなため息を吐いてしゃがみ込む。散々な気持ちだった。こんな状況で帰れるのだろうか。とにかくサスケだけは無事でいてほしい。
 コツン、とつま先に何かが当たった。石だ。
 キョロキョロと辺りを見回すと、木の影に隠れた子供がいる。小学生ぐらいの少年がナルトの様子をジッと見ていた。普段のナルトならちょっかいをかけに自分から向かうが、これまでのことから警戒心は解けない。ナルトもしばらく様子を見ることにした。
「キミ、なんでここにいるの」
 しばらくして、男の子がこちらに向かって声をかけてきた。
「もしかして、お供物が足りないの?」
「お供物?」
 聞こえた単語と自身が結びつかず復唱してしまった。お供物とは人に対して渡すものではないことぐらい知っている。もしかしたら、相手は幼いゆえ間違えた覚え方をしているのかもしれない。ここの文化はあまり詳しくないため、そういった知らない部分が絡んでいる可能性だってある。とりあえず次の言葉を待つ。
「いつも食べてるんじゃないの? みんな、自分たちのご飯我慢してるから、今より豪華なのは出せない、と思う」
 続いて小さく「ごめんね」と聞こえた。
「えっと、ちょっといいか?」
「なに?」
「オレってば誰かと勘違いされてるっぽいんだ。お供物される立場じゃねーし、頭を下げられるのも違う。オレはただ、ここに迷い込んじまっただけなんだよ」
 少年の謝罪を聞いて居た堪れなくなった。ナルトに似た誰かのために、状況が芳しくない中住民総出で農作物をかき集めているのだ。何も知らないナルトが受け入れるには荷が重すぎる。けれど少年の言葉が本当であるなら、これらの現状に巻き込まれたのには意味があるのかもしれない。スピリチュアルな話をすると、前世、とか。ここまで来れば、もう何が起こってもおかしくない。
 とにかく誤解は晴らしておきたかった。ここの人たちが求めている人物は自分ではない、と。説得は難しいかと思ったが、この少年はすぐに頭を下げ始める住人たちよりは話が通じそうだ。
「お前みたいなガキに言うのも変な話だけどさ。ここで会った人たちの中で一番わかってくれそうだから説明すっけど……」
「違うよ」
 バカなりに一生懸命この状況を噛み砕き説明を試みた。最中、少年からキッパリとした否定の言葉が投げられた。
「キミはヨメイになるんだろ? もうすぐ儀式だって、みんな大忙しなんだ。なんでそんな嘘をつくの?」
 また『ヨメイ』だ。さっきの老婆も言っていた。
 ――ヨメイをなくしてはだめだ
 言葉と共に、脳に焼きついた光景が目に浮かぶ。
「な、なあ。ヨメイってなんなんだよ」
 聞くと少年はキョトンとした顔でこちらを見た。しかしそれは一瞬で、何か納得したような表情を見せ手を伸ばしてきた。
「早く帰ろう」
「みんな心配してる」
「ボクが一緒に行ってあげるから」
「『逃げ出してごめんなさい』って言おう」
 矢継ぎ早に紡がれた言葉に息を呑む。少年が手を近づけてくるたび後ずさる。
 説得なんて無理だ。自分の考えがいかに甘いかを思い知った。そうだ、こんな異世界で話が通じるなんてあり得ない。

「ヨメイはなくなったらだめなんだ」

 

三.

 気づけば一目散に駆け出していた。とにかく遠くに。頭が真っ白な状態で走っていたため、知らぬ間に森の中にいた。
 振り向いて誰もいないことを確認する。ホ、と息をつき、木の根元に座り込む。
 辺りは薄く霧が立ちこもり、高い木々によって太陽の明かりさえ遮られている。薄暗い森の中自分がどのあたりにいるのかわからない。途中何度か転んでしまい、制服もボロボロだ。痛む足はすでに限界を超えている。本来安静にすべきなのに、長時間走り回り、さらには足場の悪いところで何度も転んだのだ。見ると赤黒く腫れてしまっている。
 ここには光がない。静まった空気は耐え難いほど重く、息が苦しくなる。このまま野生動物に襲われて死ぬか、餓死するか。どちらにせよ助からないだろう。
 せめて最後にサスケに会いたかった。いや、会えずとも書き置きさえ残せればサスケだけでも無事でいられる可能性が上がったのに。自分はなんて役立たずなんだろう。
 ボロボロと涙が落ちていく。ここに来たときは困惑のあまり泣いてしまった。それも今のように。しかしサスケと再会してからというものずっと支えられていて、涙を流すことなんてなかった。やはり、ナルトにとってサスケは大きな存在なのだ。
「――よし」
 頬を両手でパチンと叩き、気を引き締める。ここからあの集落に戻ることは難しいだろうが、とりあえず動こう。何もしないで諦めるよりは遥かにマシだ。涙を拭って立ち上がった。
(サスケ、待ってろよ)
 霧で白む森の奥へと足を向けた。
 落ち葉を踏みしめながら進んでいく。同じルートに来ないよう木に印を刻んでいるが、一向に景色は変わらないままだ。
 体力温存のために少しずつ休んでいるが、それでも疲労は蓄積していく。座るのに良さそうな大きな岩を見つけ腰をかける。ひんやりと硬い感触がズボン越しに伝わって気持ち悪い。それも時間が経てば慣れてゆき、いつもより多めの休憩を取った。こんなにいい椅子、ならぬ岩に会うこともそうそうないからだ。
 ぼんやりと空虚を見つめる。あれから何時間歩いたのか。もしかしたら一時間も経ってないかもしれない。太陽の光がないだけで時間感覚はこんなに狂ってしまうのだと初めて知った。
 さてそろそろ進むか、と重い腰を上げたところで、視界に気になるものが入り込んだ。
 それは、岩の下の方。ガリガリと乱雑に削られた線がある。岩の表面にはヒビが入っていたり、苔によって色が変わっていたりと時間を感じさせたが、そこには確実に〝矢印〟が刻まれていた。矢印の方向はナルトが向かおうとしていた先だ。今まで見落としていただけで、他の場所にもあったのかもしれない。
 これはどこを指しているのか。どこに辿り着くのか。いずれにせよ、この先に何かしらはあるはずだ。慎重に進んでいくほかない。罠があったらその時はその時だ。
 岩に刻まれた矢印の方向に進むと、今度は大木の根元にある少し大きめの石に矢印が刻まれていた。このまま真っ直ぐ進めばいいらしい。そうして辿っているうちにあることに気づく。矢印は石や岩にしか刻まれていないのだ。硬い表面を削るのは困難だろうに、なぜわざわざそちらを選んだのだろう。だが、こうして進めているのも石に刻まれているおかげだ。たとえそれが罠だとしても、今のナルトにとっては唯一の道標のため、正直ありがたかった。
「ここって……」
 たどり着いたのは開けた空間で、その先に石階段があった。ひと五人が並んでも余裕そうな横幅があり、段数も多く一番上が見えない。石の間から雑草が生えているが歩くには支障はなさそうだ。何より目を引いたのは、階段の前に聳え立つ大きな鳥居だ。全体的に劣化が見えるものの荘厳な佇まいである。巨木から作られたであろうその姿から、本殿はかなり立派なのものなのだろうと想像できる。鳥居に神社名が掲げられているが、残念ながらそれは文字の部分がボロボロに剥がれてしまっており読み取れなかった。
 誘われるように鳥居に向かって歩みを進める。疲弊しきった体のことを忘れ本能のように足を動かした。
「すげーな」
 感嘆の声を上げる。鳥居に近づくほど厳かな雰囲気に圧倒され、気が引き締まる。ところどころ塗装が剥げていたり木が腐食したりしているのが勿体無いと思う。しかしそれを差し引いても圧倒的な威容を誇っていた。
 鳥居を潜ったが、少し戻って一度お礼をする。真ん中は神道と言って神様の通り道だと聞いたことがあり、隅を歩く。森の奥深くにあり手入れもされていない神社に神様がいるかどうかはわからないが念のためだ。
 階段に沿って木々が生えている。登るにつれて霧が濃くなってくる。石を敷き詰めてできた階段は城壁を彷彿とさせる均一さでそこそこ歩きやすい。相当な手間暇が伺えた。
 しかし、なぜ参拝者が来づらいような場所に建てたのだろう。このぐらい立派なら観光地としても有名になっているはずだが見たことも聞いたこともない。石に刻まれていた矢印が参拝者への道案内だったのだろうか。だとしたら看板を立てた方がよっぽどいいと思うが。
 それから途中に休憩を挟みつつなんとか登りきった。疲労や怪我のデバフがあったのもあり、階段の終わりに着いた途端倒れ込むように寝そべった。失礼なのは承知だが少しだけ大目に見てほしい。ゼェゼェ上がる息をなんとか整え立ち上がる。階段の下は霧に包まれすぐ先が見えなくなっていた。閉じ込められたようでぞわりとした。
 本殿は想像していたようなものではなかった。どころかこぢんまりとした拝殿しか見当たらないではないか。劣化はひどく屋根は剥がれ折れている柱もある。賽銭箱の奥に見える障子戸は破れて見るも無惨な有様だ。長いこと参拝者がいないことが一目で伺える。立派な作りを期待していたために少し落胆した。だがわがままも言ってられない。今日はここで休ませてもらおう。
 所持金が一銭もないので賽銭はできないが鈴を鳴らして手を合わせた。
(一晩ここを貸してください)
 少し休んでからまた行動開始だ。次はあの階段を降りるのかと思うと辟易するが、休む場所が確保できたのは僥倖だろう。もう体力も精神もボロボロだった。とにかく心だけは保たねばならない。ようやく一人落ち着けたところで大きなため息をついた。

 

四.

 中に入るのは憚られたので他に落ち着けそうな場所を探す。周囲を観察しながら本殿の周りを回る。目ぼしい場所がないまま裏に来たとき本殿に座り込む人影を見つけた。サッと陰に隠れたが相手はナルトに気づいたようで、立ち上がってゆっくりと向かってくる。逃げを打とうにも足が縫い付けられたように動けない。恐怖と緊張で汗が噴き出る。何もできないまま口をハクハクさせていると、相手が口を開いた。
「ナルトか?」
 それは聞きたくてしょうがなかった声だった。
「さ、サスケェ!」
 一気に駆け出した。近づけば輪郭がしっかりと見えてくる。見間違いはない、ずっと思っていた相手だ。
 抱えていたいろんな不安が一瞬で霧散して体の力が抜けてぺたりと座り込む。サスケはナルトの横に腰を下ろしながら安堵を含んだ息を漏らした。
「無事でよかった」
「ほんっとだってばよ……」
 サスケの言葉に力のこもった声が出る。しかしそれは次第に勢いをなくしたように空気に溶けていく。息とも声ともつかない緩んだ音を上げながらガクリと頭を下げた。埃や砂、汗などでパサついている金髪を白い手にグシャグシャと掻き撫でられる。「やめろよー」と言いつつ抵抗はしなかった。一通り撫でて満足したのかそっと手が離れていく。珍しい行動にむず痒くなった。サスケも大変だっただろうにナルトを励ましてくれるのだ。心が温まり、だいぶ気持ちが落ち着いた。
「そういえばオレとはぐれてる間にどうしてたんだ? 朝突然いなくなってびっくりしたってばよ」
「ああ、そうだな」
「うん?」
 返答になっていない言葉に強い違和感を覚えた。
 顔を上げるとサスケと目が合った。穴が開くぐらいジッと見つめてくる様子に当惑する。目を逸らせないまま時間がすぎていく。サスケが正面を向いたことで永い時から解放された。ナルトも倣って前を向く。そこには無造作に生える雑草と、霧の中にぼんやりと見える木々しかない。
「待っていたんだ。お前を」
 一定のトーンで紡がれた言葉はすんなりと耳に入った。けれど意味を飲み込むには突っかかりがある。
「オレがここに来るってわかってたのか?」
「ああ」
 今度こそ理解ができなかった。ナルトと共に迷い込んで二人で出口を探していたはずだ。忽然と姿を消したサスケは先にここを見つけ、ナルトを待っていたというのだろうか。それなら最初から一緒に来たかった。無駄に怖い思いをした。
(いや、違う)
 サスケはこのような非常事態で一人置き去りにすることはしない。そしてナルトが必ずここに来ると確信したうえでここにいる。こんな山奥にある神社にだ。未来を予見でもしていないとできない。もしかしてサスケは『敢えて』ナルトを一人にしたのだろうか。
 ふと、サスケの制服を見た。泥まみれのナルトのものとは違い綺麗なままだ。視界が悪い山の中を汚れ一つ付けずに歩くことは不可能だ。
 あらゆる点に気づいて体が震えだす。
「サスケ、お前」
「お前が無事にここに戻って来れて安心した」
 ニコリ。
 振り向いた顔には老婆と同じ、能面のような笑顔が張り付いていた。
「あっ、あ、あああ!」
 声を上げて立ち上がる。駆け出す寸前サスケに腕を掴まれそうになりなんとか避けた。走りながら階段を目指す。濃い霧のせいで下が見えないが、ここから出るには降りていくしかない。振り向くと、ニコニコと笑うサスケが追いかけてきている。ゾワリと体が震えた。命の危機を察知し階段に足を踏み出す。先ほどより霧が濃くなっているのか、一寸先も見えない。後ろを振り返るも追いかけてきているのかすらわからない。
「はぁ、ふっ……、はぁ」
 緊張で息が荒くなる。肩で息をしながら一段一段慎重に進んでいく。
 ――ガサッ
「……っ! ぁ、ひっ!」
 横から草が擦れる音がして、驚いた拍子に足を滑らせた。踏み外したと認識したときにはすでに体は傾いていた。このままでは最悪死ぬ。
 ギュッと目を瞑ると、草の音がした方から腕が伸びた。
「ナルト!」
 腕が掴まれそのまま引っ張られる。そのまま手の主をクッションに地面に転がり込む。
「ガ、ハッ」
 背中を強く打ち付けたのか耳元で苦しげな声が聞こえた。急いで立ち上がり相手を見た。
「サスケ! 大丈夫か!」
 呻きながら息を荒げているのはサスケだった。今のナルトにとってサスケも安心できる存在ではないが守ってくれたのは事実だ。落ち着くまで優しく背中をさする。しばらくすると呼吸も戻り、ゆっくりと木にもたれかかった。
「もう大丈夫か?」
「だいぶ落ち着いた」
 答えてからふぅ、と息を吐いていた。サスケは思い切り転げたせいで全身泥だらけになっていた。今ので腕を擦りむいてしまったらしく赤く血が滲んでいる。ばい菌が入らないよう処置したくとも傷口を洗う水はない。自分のために痛々しい傷を作ったサスケに申し訳が立たない。なにより、今そのサスケを心から信頼できないのがナルトの心を沈めている。
「神社に登ってたのはお前だったんだな。叫び声が聞こえた」
「あ、ああ。さっきのか」
「何があった」
 このサスケは本物のように思える。ぶっきらぼうな態度のまま会話が進む。泥だらけの制服や生々しい傷口も最たる証拠だ。しかし、まだ恐れていた。この環境において唯一信頼できる存在が偽物で、襲ってきたのだ。もう何を信じればいいのかわからない。疑心暗鬼の目でサスケを見てしまう。
 何も言わずに睨みつけてくるナルトに、サスケの眉間が寄る。
「なんだ。助ける必要はなかったか?」
「えっ、いや違うんだ。その……お前ってば本物のサスケ?」
「はあ? 決まってんだろ。何言ってんだこんなときに」
 イラっとくる態度やこの状況について理解している点にホッとする。ズボンに乾いた泥がついているところを見ると、サスケも必死にここまで来たらしい。
「もう一度確認するけど本物だよな?」
「あ? さっきも言ったろ」
「じゃあ笑ってみろよ」
 芋虫を噛んだような顔をして全面から拒絶を示した。笑えと言われてこの反応。これは確実に本物のサスケだ。悪戯に口角を上に引っ張るとグギギ、と音が出そうな抵抗をし、ついには無理やり手を剥がされた。
「よかった〜、本物だってばよ」
「チッ」
 舌打ちしながら口角を揉んでいる。本物のサスケはもう少し笑った方がいいと思った。
 とにかく確認はできたので事の経緯を話すことにした。サスケは黙って聞いてくれていた。
「オレの偽物なんて気味悪いな。にしてもずいぶん大変だったんだな」
「ほ、ほんとだってばよ! そういうサスケは?」
「ああ。目が覚めたらこの森に来ていて、出口を探して歩いていたらここに着いた」
「石の矢印を頼りに?」
「そうだ」
 サスケはナルトが集落で襲われている間もこの森で迷っていたらしい。出口も見つからずひたすら歩いているときに、ナルトが見たものと同じ矢印を道標にここに来た。ゾンビみたいな者たちに襲われていなくて安心したが、この森の中でずっと彷徨うのもつらかっただろう。
「つかなんでこんなとこにいんだよ。普通こんな茂みの中にいねーだろ」
 ナルトが石階段を登り切ったときにはここに本物のサスケはいたのことになる。灯台下暗し。まさかこんなところにいるとは思わない。
「オレがここに来たときはこんなに霧は濃くなくて、この奥へに続く道に沿って歩いてたんだよ。そしたら途中お前の叫び声が聞こえたから戻ってきたんだ」
「奥?」
「どこかに続いているようなケモノ道だ。今は見えないがな。野生動物が作った道かもしれないから危ないが」
 階段を登り切るより先に危険な道を選ぶサスケを意外に思った。目の前に確実な道があるのに。しかし上に辿り着いたところでサスケの偽物がいたわけだし、何か直感が働いたのかもしれない。
 ケモノ道とはどこに繋がっているのだろうか。もしどこかに繋がるのであれば行ってみたい。もうどこにいても危険なのだ。
 けれどサスケと一緒ならどこにだって行ける。
「これからどうする? オレってばサスケが言ってた道の奥に行きたい」
「オレもだ。道に出るまで木に目印をつけたから、まずはそれを確認しながら進む。霧が濃いから迷うなよ」
「おう!」
 サスケは立ち上がるのと同時にナルトの手を強く握った。迷わないように、ということだろう。霧のせいで体温が下がり、いつも冷たいサスケの手がさらに冷えている。温めるようにギュッと握り返す。そうして二人は歩み出した。